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院長 木南 意澄

この度は、昭和歯科医院のホームページをご覧いただきありがとうございます。
昭和歯科医院・院長の木南 意澄(こみなみ いずみ)です。
歯科医院は非日常の空間で敷居が高いと考える方も多いと思います。
その敷居を少しでも低くするために、たくさんの情報を公開しています。

何より気になるのはその歯科医院の院長やスタッフがどんな人間なのかということでしょう。木南が歯科医としてだけでなく、1人の人間として何を考え、 何をしながら、現在に至るか、そして、現在何を考え、何をしているか、皆さまに少しでも伝わればと思います。

木南 意澄の半生記はこちら

【略歴】

1992年 新潟高等学校卒業
2000年 九州大学歯学部卒業
第1口腔外科に研修医で入局
2002年 第1口腔外科医員
2003年 昭和歯科医院勤務

スタッフの紹介

スタッフの紹介

皆様のご来院を笑顔でお出迎えいたします。
治療についての不安・ご質問、またどんなことでもお気軽にお尋ねください。

木南 意澄の半生記

木南 意澄の半生記

自分ではまだ若いと思っていますが、気がつくと人生も半分辺りに差し掛かってきました。 大学から縁あって、福岡に来て、20年が経とうとしています。仕事、プライベートともに充実のひとときを迎えています。この半生を振り返ってみようと思い、ペンを取りました。 自伝のような偉そうなものではありません。 

砕けたエッセイと思って、楽しんでいただければ幸いです。
「先生はどこ出身ですか?」と言われるといつも返答に困ります。 
『生まれは徳島ですが、実家は新潟です。』
これは正解ではありますが、実は、実態とは合っていない的外れな答えです。
それじゃ、本当の答えは?それをこれから、じっくり枝葉を付けて語らせていただきましょう。半生を全8章に分けました。
第1章からどうぞご覧下さい。

第1章 出生~幼少時代

第1章 出生~幼少時代

「木南(こみなみ)」の姓は父の実家、神戸の発祥です。だから、私の本籍は現在でも神戸市になっています。母の実家が徳島であり、私の生まれ故郷です。 

幼少~小学生時代の長期休暇にいつも遊びに行っていました。「優しいおばあちゃんの家」として、今も色あせない輝きを放っている理想郷です。 

しかし、住んでいた記憶は全くありません。なぜなら、3歳の誕生日にはアメリカのワシントンに移ったからです。父の仕事のため、家族4人で行きました。話だけ聞くと、非常にかっこいいのですが・・・ 、2年間の海外生活、これまたほとんど記憶がありません。当然、英語もしゃべれません、残念。

第1章 出生~幼少時代

私には2つ下の弟がいます。
当時の写真を見ると、どれもペアルック。 

小さめの私と大きめの弟。「Are you twins?」(双子ですか)とよく聞かれたそうです。アメリカから帰ってきた日本は東京の豊島園でした。 
5歳にして、5つ目の住まいとなりました。

その前に、私が歯医者と初めて関わった機会を思い出してみましょう。徳島の祖父母が県庁を退官してから、甥の歯科医院で働いていました。 
祖父は衛生士学校の理事長、祖母は受付事務でした。そこで治療を受けた記憶はありませんが、帰郷のたびに、医院には遊びに行っていました。非常に大きな建物で、本当の病院のようでした。チェアもたくさんあり、従業員も大勢いた記憶があります。今の私が考える歯科医院とは規模が全然違います。のちに私が歯科医になるのに大きな影響を与えた? いえいえ、全く関係ないようです。

第2章 小学校時代

東京に1年ほど住んだ後、6つ目の住居は埼玉でした。西武ライオンズのお膝元、所沢市。ここで小学1年生を迎えることになります。
私が小学校時代に習っていたのは、学習塾以外では水泳、絵画、習字、ボーイスカウト。その中で1番好きだったのが習字。 
先生は厳しかったですが、友達がたくさんいて、最後まで続けた習い事でした。でも、なぜか「女性のような字」と今でもたまにからかわれます。
私の受験史は中学受験から始まります。小学校~浪人まで絶え間なく、どの時期も塾や予備校に通っていました。全てを振り返ってみると、小学校時代の勉強が1番難しかったと思います。当時はスパルタ教育が流行(?)で、竹刀やバインダーなどでよく叩かれました。首都圏のレベルは高く、なかなか偏差値50を越えられなかったのを覚えています。 勉強が嫌いと言うことはなかったですが、自分からすることも稀でした。消極的な姿勢ながらも、勉強をだらだらするといった感じでした。そんな凡才な私でも浪人したら、旧帝大くらいに行けたのは、ひとえに両親の教育方針の賜物だったと思っています。嫌々でも継続的に学習していると、少しずつは知識が蓄積され、力となったのでしょう。

第2章 小学校時代

「勉強は大事」、このことに異論を挟む方は少ないでしょう。 
いい高校、いい大学、いい企業に入るには良い成績が必要です。
学歴社会をうまく生き抜くために勉強をする、これが最もわかりやすい意味です。

しかし、そこで得た知識は必ずしも社会に必要なものばかりではありません。もちろん、あるに越したことはないですし、知識は多いほうが良いに決まっています。ただ、多くの犠牲を払って獲得しても、その後一生使わない知識が大半ということです。それなら、学生時代の試験のためだけに必要なのか?

私が考える「子供に勉強をさせる真相」はコレです。子供の頃に勉強を通じて学ばせたいことは「嫌なことでもやらないといけないことがあるんだよ」ということ。少しネガティブに聞こえるかもしれませんが、自分勝手でわがままな我慢のできない人間にならないために、大事なことと考えています。必ずしも勉強である必要はありません。スポーツでも、他の習い事でも、「自分を律する心」が育てば良いのです。
理想的には自ら進んで楽しく勉強ができることです。コレができれば、苦労しないのですが、私はそうはいきませんでした。今の方がよほど、楽しく、勉強していますね。

第3章 中学校時代

第3章 中学校時代

中学受験は一流校に受からなければ、公立に行くことになっていました。当然、一線級の中学に受かる実力もなく、あえなく撃沈。 
それでも、たいして落ち込んだ記憶はありません。実力差がかなりあり、高望み受験だったのでしょう。

そして、近くの公立中学へ進学することになりました。中学といえば、部活でしょう。私の通った中学は課外部活が必修でした。小学生のとき、休み時間や放課後にはいつもサッカーをしていましたので、サッカー部に入ろうと思っていました。

しかし、見学に行くと、顧問の先生が非常に怖い先生で、しかも、部員は全員坊主頭。ビビってしまった私は友人の誘いもあり、卓球部に入ることにしました。卓球部はその中学で1番部員が多く、人気の部活でした。 練習は思っていたよりハードで、土日も1日中ありました。「暗いスポーツだな」と親には言われていましたが、やってみると、非常に面白く、かなり一生懸命取り組んでいました。塾にも相変わらず通っていました。 勉強量が増えたわけではありませんが、中学受験で成績上位者がいなくなったので、相対的に成績はかなり上がりました。勉強、部活、恋愛と比較的充実した楽しい生活でした。

ここで私に大きな転機が訪れます。 新潟への引越しです。 
父が新潟大学へ転勤になるということで、8年間住んだ所沢市を離れることになります。 関東に住んでいる人にとって、日本海側の新潟に良いイメージを持っている人は少ないでしょう。小学校2つ、中学校3つの転校ボーイの私でしたが、このときの友人との別れはつらかったです。中学2年、11月のことでした。新潟に行って、1番変わったのは友人と遊ぶ時間が増えたということです。

首都圏と違い、教育はのんびり、部活動もあまり盛んではありませんでした。埼玉では私立の高校に行こうと塾に行き、勉強を頑張っていましたが、新潟には偏差値の高い私立高校はありません。 公立の新潟高校が1番良くて、そこであれば、今までの貯金で充分入れそうでした。新潟では学校が終わったら、友達と遊ぶのが常識。塾や習い事で忙しいから、遊べないなんて人はほとんどいませんでした。ゲームをしたり、野球をしたり、ビデオを見たり、 遊び足りない私にとっては新鮮でした。今でも、年に1回、この頃の友人とは旅行に行きます。学校が同じだった期間は1年程でしたが、深く付き合えたということでしょうか。

第4章 高校時代

新潟と言えば、雪、米、酒でしょうか。雪はもちろん降りますが、 新潟市は豪雪ということはありません。それより、雨が多いです。そして、坂が多い。高校は片道8kmを自転車で通学していました。雨にも負けず、風にも負けず、雪にも坂にも寒さにも負けず。 多少積もっても、自転車の轍(わだち)に沿って、走りました。行動範囲が広がり、外から入る情報が増えました。

そこで私が興味を持ち始めたのが、音楽です。 お気に入りのアーティストのCDを買ったり、借りたりしていました。コツコツと買い続け、結婚するときには1000枚以上持っていました。趣味嗜好にあまりポリシーはなく、Jポップスで売れた曲を好き嫌いなく、聴き漁っていました。なので、90年代のヒット曲は網羅している自信があります。当時は平成の御三家や光GENJIなどが盛況で、アイドル全盛時代でした。 私が好きだったのは、工藤静香。CDはもちろん、ポスターやら下敷きやら、色々持っていました。今思うと、どこがよかったのかな?と言う感じです。 
でも、流行りましたよね、「FUJITSU」「MUGON 色っぽい」「嵐の素顔」懐かしいです。 時の顔に熱狂していました。 青春時代の活力をたくさんいただいていました。高1,2くらいまでは聴く音楽で、女性アーティストの曲が中心でした。 WINKやプリンセス・プリンセス、リンドバーグなど、懐かしいでしょ? しかし、高3の頃から、歌う音楽に移行していきました。 1991年はトレンディドラマとその主題歌が大当たりでした。 東京ラブストーリーとラブストーリーは突然に、101回目のプロポーズとSAY YES。 これらに「愛は勝つ」を加えた3曲がダブルミリオンセラーでした。
バブルの残り香とでもいいましょうか。

第4章 高校時代

学業の方はどうかといいますと、「冴えない」の一言です。 
入学以来どんどん順位が下がり、これ以上は下がらないところまで、行きました。首都圏から転校してきた優秀「シティボーイ」に見る影もありません。新潟とはいえ、母集がトップクラスになるので、勉強しないと淘汰されます。 

1度わからなくなった教科はどんどん理解不能となりました。公立は自主性を重んじます。補習などもなく、できない生徒はほったらかしです。 
それでも、このときは立ち上がれませんでした。というより、立ち上がろうという気がありませんでした。医者になるという志だけ高いまま、高校卒業を迎えるのでした。

第5章 浪人時代

当然、こうなることはわかっていました。高校における後半の勉強は 当時ほとんどわからなかったですもの。それでも、国公立の医学部を志望していた私は 当然、浪人生となりました。新潟にある全国区の予備校は代々木ゼミナールでした。私はここで予定外の2年間を過ごすことになります。それまでとは打って変わり、まじめに勉強するようになりました。親から預かった浪人費用を自分で払いに行ったのが、堪えました。結構なお金がかかっていると思えば、やらねばなりません。0からのスタートなので、授業にもついていけ、成績もどんどん伸びました。
元が悪いので、伸びしろが大きいということですが。 夏を過ぎ、秋を越え、冬に入り、順位、偏差値ともに上がりました。国公立の医学部もこの調子なら受かるかな、と思っていた矢先です。私の人生を少し狂わせるあることとの出会いがあります。それはゲーム。 

第5章 浪人時代

当時、ゲームセンターで流行していたストリート・ファイターⅡシリーズです。見知らぬ人がゲーム中に突然、乱入してくる元祖対戦型格闘ゲーム。勝てばそのままゲームを続行でき、負けた方は終了、再対戦にはもうワンコイン必要になります。 

それまで、家でゲームができない禁欲的環境で育ちました。 
その反動が親の目が少し離れ、成績が伸びたおごりと合わさり、顔を出したのかもしれません。
やり出すと、何でも1番でないと気が済まない私。
貴重なお金と時間を浪費する日々が始まってしまいました。

今だから、こうやって告白しますが、本当は両親に申し訳なくて、顔向けできません。ゲームでは近隣敵なしの実力となりました。 成績も模試では上位をキープしていて、問題ないと思っていました。 しかし、ゲームの時間が1日1時間から2時間になり、3時間になり・・・ 
そんな奴を神様はとうとう最後まで許してはくれませんでした。結局、はるばる九大の歯学部に来ることになりました。「なんで、九州に来たの?新潟にも歯学部はあるじゃん。」頻度の高かった質問で、今でもたまに尋ねられます。当時の九大歯学部はセンター試験と2次試験の配点割合に大きな特徴がありました。センター試験:2次試験=250:750、約分すると1:3だったのです。要は、2次試験勝負、言い換えると、センター試験はあまり関係ないということでした。センター試験の悪かった私はこの傾斜配点に望みを託したわけです。父のように医者になるために、医学部を目指していましたが、目標は叶いませんでした。でも、今はそれで良かったと思っています。歯科医の仕事の素晴らしさがわかるからです。 
非常に興味深く、やりがいがあり、私に合っている職業だと言い切れます。

第6章 大学時代

親元を離れて1人暮らしの始まりです。嬉しかったですね。何をするのも、何時に帰るのも、何を食べるのも、全て自由。「大学に入ったら遊べる」と聞いていたので、遊ぶぞ!と思っていました。でも、授業が始まると、結構大変、「思っていたのと違う!」当たり前です。 
本来、1番重要で、実践的な知識を学習する場所のはずですもんね。今まで同様、むしろ増えたか?テストに追われる6年間が始まりました。
歯学部は進級もなかなか大変でした。2年から3年に上がるときなんて、60人中19人が留年しました。実に1/3。私は運よく、通りましたが、仲の良い友人達と離れ離れになってしまいました。現役で大学に行った弟と大学1年生同士になりました。

  • 第6章 大学時代
  • 第6章 大学時代
第6章 大学時代

座学の成績はよくありませんでしたが、実習は好きでした。 
5年生から、基礎実習、臨床実習が始まり、歯医者らしくなってきました。

歯学部は6年間なので、遊ぶ時間もたくさんありました。
お金はないけど、時間は有り余っているのが大学生です。
もう一生体験できないであろうたくさんのことを学び、遊びました。

6年生になると「何を専門にするか」を考えるようになります。卒後すぐに一般開業医に勤め、早く一人前の歯科医になるも良し。大学病院に残り、専門的な知識、技術を習得するも良し。さらに大学院に進み、一層深く学び、歯学博士を取るも良し。私もかなり迷いました。初めは、なんとなく大学院かなと考えていました。父が研究者だったので、そのラインは見えていました。しかし、卒業が近くなると、臨床が早くしたいと考えるようになりました。実習では口腔外科と矯正歯科に興味を持っていました。最も大学病院に患者が集まるのが口腔外科です。1番経験を積んでやろうと意気込み、第1口腔外科に入局しました。

第7章 研修医時代

第7章 研修医時代

大学に残る場合、研修医か大学院生で在籍することになります。医局を決め、身分を決めて、研修医なら2年、大学院なら4年です。やっと少し遅めの社会人1年生となりました。 

でも、1人前には程遠く、研修の身です。朝から晩まで薄給で働きづめでした。外来だけであれば、忙しいと言っても、いつかはみんな帰ります。口腔外科は病棟があり、常に入院患者がいます。 
大変な方がいらっしゃると24時間かかりっきりになるのです。

実はこのころ、歯医者らしい仕事がほとんどありませんでした。口腔外科医とは歯科医ですが、歯医者ではないのです。親知らずの抜歯がまだ1番それらしいでしょうか。 病棟では入院患者の管理が主な仕事です。それから、採血や点滴、手術の介助、3年目には簡単な手術も手がけるようになりました。当直もあり、大変ですが、後輩もでき、充実した日々でした。昭和歯科医院において、九大歯学部病院に患者さんを紹介することがあります。 
どんな症例でも自分で治療できるよう研鑽を積んでいますが、設備と責任の問題があります。口腔癌、外科矯正、骨髄炎などは大学病院で管理する方が、患者さんの幸せにつながります。大学病院の中でも口腔外科は他の科に比べ、紹介患者が圧倒的に多いです。 
「必要とされている感」をビシビシ感じながら仕事ができます。

第7章 研修医時代

大学は臨床だけではなく、研究をしたり、論文を書いたりする仕事もあります。私は2年目後半から論文を1つ書き始めました。 
これがこの時期の1番大きな仕事だったかもしれません。 

臨床が終わった後、夜遅くまで、調べ物をしてまとめます。 
このときに先輩からパソコンの使い方を教わりました。
様々なソフトの使い方を教授してもらい、今でも非常に役に立っています。

大学病院は慢性人材過多状態です。大学病院で仕事をしたいと思っても、給料があるポストは限られています。押し出されるように、4年目には外部関連病院に出向となりました。3年間、貴重な環境を経験でき、様々な知識と経験を積むことができました。しかし、一般歯科医として学んだことは決して多くない状態でした。抜歯や小手術ができる、血を見てもびびらない、薬について詳しい、・・・それくらいでしょうか。
口腔外科医以外は価値がないと思っていた井の中の蛙がついに大海に出ることになりました。

第8章 昭和歯科医院時代

第8章 昭和歯科医院時代

いよいよ現在進行形です。 
長い自己紹介ですが、最終章です。

私が昭和歯科医院に来たのは2003年4月のこと。 
前任、山根先生の後を引き継いで第4代院長就任です。
あれから早いものでもう10年を越えました。

初めに今、私が考えていることを書きます。私はできる限り長く、この昭和歯科医院で現役を続けたいと思っています。私が考える理想は、1人の患者さんを1人の歯科医が生涯変わらず診られることです。なぜなら、お口全体の治療経過がわかるのと、わからないのでは治療効率が大違いだからです。信頼関係を築くことができ、一生お付き合いができれば、こんなに素晴らしいことはありません。これからも治療、予防を通じて、長期安定にこだわり、知識、技術の研鑽を積んでいきます。それでは、この9年間を振り返ります。技術、環境、スタッフの3つに分けて書きます。
まずは技術、歯科の治療技術や知識における成長です。口腔外科医から一般歯科医となり、知識、技術が疎い分野で院長となったわけです。初めの頃は、やる気はあっても、腕が付いていかず、歯痒い診療でした。これではいけない、患者さんに迷惑がかかると思いました。そこで、休日を返上して、歯科の技術、知識のセミナー、講習会にたくさん行きました。

第8章 昭和歯科医院時代

今でも最低、月に2回は何かのセミナーに出席しています。 
10年間以上続けているライフワークです。どこの業界でもそうでしょうが、歯科界も技術革新の進歩が早いため、情報が命です。 

最新治療=最良の治療ではありませんが、知識がなければ、その選択すらできません。最良の治療を行うために、様々な情報や知識を得て、勉強するのは歯科医の使命なのです。

最近では私がセミナーの講師側に招かれるようにもなりました。インプラントの技術を教えると同時に歯科治療についての考え方も偉そうに語っています。歯医者過剰時代となり、苦労されている先生も多いと聞きます。歯科界を盛り上げ、「歯医者は信頼できる存在で、素晴らしい」と言ってもらえるよう目指しています。次に昭和歯科医院の周囲状況の変化についてです。この9年間で昭和歯科医院付近はかなり開発が進みました。電車通勤をしていた頃は今宿駅から歩いて通っていました。距離と時間を調べてみると、1890m、徒歩23分。確かにそれくらいかかっていました。余裕があるときはいい運動になります。でも、暑い日、寒い日、雨の日は道のりが長かったです。

第8章 昭和歯科医院時代

2005年に九大学研都市駅ができ、お店、マンション、ついでに歯科医院も増えました。患者さんも広範囲からいらしてくれるようになりました。インプラントの看板、オブジェやホームページの影響も大きいと思います。海外から検索して、当院にいらしてくれている方もいるくらいです。

歯科用医療機器や説明用パソコンもかなり増えました。外観、内装は多少くたびれてきていますが、中身は最新だと自負しています。インプラント、矯正、セラミック、予防を診断、治療するために必要なものはほぼ揃っています。2013年1月にはマイクロスコープも導入しました。

3つ目にスタッフについてです。大学病院勤務から一般開業医の院長となり、一緒に働くスタッフがガラリと変わりました。それまで、私は歯科衛生士や助手と一緒に働いたことがほとんどありませんでした。大学では治療をする際、最低限の用意しかされていません。何をするにしろ、自分でしなければなりません、特に下っ端は先輩の分までして当たり前です。治療する時間より、用意と片付けの時間の方が長いことも珍しくありませんでした。
それがここでは「○○、取って。」と言うだけで、魔法のように出てきます。素早く、迷いなく、文句なく、当然のようにしてくれます。当たり前と思われるかもしれませんが、かなりのカルチャーショックでした。「座ったままで、何でも出てくる!」仕事とはいえ、ありがたいことです。 
最近では「アレ」とか、物の仕草をするだけで欲しいものが出てきます。この状態に、すっかり慣れていますが、いつも感謝しています。

第8章 昭和歯科医院時代

現在、昭和歯科医院には4人のスタッフがいます。歯科衛生士3人と受付1人です。みんなそれぞれ得意分野があり、役割分担して頑張ってくれます。 

結婚、出産をしても、戻ってきてくれ、本当にありがたいです。 
今では全員既婚者で、大きな環境の変化も起こりにくい成熟期を迎えています。このまま私と歯科医院と伴に年を重ねていく予感がします。

実はこの半生記を1週間かけて書きました。楽しいことだけではなく、当時かなり辛かったことも振り返りました。でも、思い出してみると、不思議と悲壮感はほとんどなく、ただ懐かしいだけで、どれも楽しく、笑える思い出ばかりでした。それは今がある程度、満たされているからでしょうか? 
これまでにたくさんの人に影響を受け、お世話になりました。そのおかげで今の私があり、大変感謝しています。私の目標は私とご縁のあった方々にできるだけたくさんの良い影響を与えることです。特に歯医者の仕事では命を懸けています。これからも、皆さんの幸せに貢献できるよう精進していきます。
Thanks for reading all.